COLUMN


レナート・パラッツィ氏

イタリアの演劇評論家  元ミラノ市立パオロ・グラッシー芸術学校学長

 

《東洋と西洋の調和》ー井田邦明演出「マダムバタフライ」に寄せてー

 

 演劇教育界に携わるあまたのプロの中で、演出家井田邦明が演劇指導に優れた才能を持つ偉大な芸術家であるところは、指導を受けた者、彼の同僚の誰しもが認める事である。俳優のマエストロとして生まれついた井田邦明は、その天与の才を持って確固とした指導ができるのである。落ち着きとバランスという、昨日今日では身に付くものでない要素が演劇指導には欠かせない事は、本人も自覚していることである。それは厳しい自己発見の孤独な道程であり、他人とは分かち合うことのできない人間関係の断絶でもあるが、いずれにせよ情熱と寛容さを要求され続ける職業なのである。

 井田邦明は芸術上の表現を指導の苦労、大変さのはけ口にするのではなく、台本に忠実でありつつ、役者それぞれの性格も研究し尽くし才能を引き出し、自己表現をするのである。

 私が今まで見てきた彼の演出は、確固としたスタイルを持ち、出演者を高く評価する観客をつかんでいる。母国語ではないハンディがあるにもかかわらず、井田邦明は演劇の繊細さ、言葉の綾を読み取り、表現し、役者たちを徹底的に指導することができる。この点を見ても、彼がはっきりとした演出の方針を持っていることがわかるが、精神的、象徴的なものも拒否せずに台本作家の意図するところを明快に表現するのが井田邦明である。

 井田邦明の演劇文化は、東洋と西洋の二つの世界にまたがっており、双方の知的影響を受けている。東洋とは彼の母国である日本であり、現代生活のリズム、テンポからは地理的に遠いところにあるが、本人が意識する以上に舞台やスタッフとの関係において、日本の神聖なる、厳しい伝統を感じさせる彼にとって、日本は身近にあるといえよう。西洋とは、ジャック・ルコックについて学んだフランスであり、また現在彼が居住し、活動しているイタリアはミラノの霧、エコー、色彩、音、そして地中海文明の追憶を持っている国である。この様々な要素が彼の中では自然な形で解け合い、日本の高尚な様式とラテン的輝き、つまり演劇の全てを調和させているのが彼である。

 イタリアで難解な三島の現代能で知られた彼の日本での初めてのオペラ演出が「蝶々夫人」という日本を題材にしたイタリアオペラというのは、なかなか意味のあることである。それぞれ立派な伝統を持った異質の演劇文化であるが、ルコックに学んだ井田邦明であるからこそ、役者や歌手の動きの細部までの指導が可能なのである。おそらくそのおかげで、彼は日伊両国の観衆に言葉の壁を超え他舞台を提供でき、友人同僚たちに演劇の持つ様々な面に開かれ熟した芸術をもたらすことができるのであろう。

イタリアの演劇評論家  元ミラノ市立パオロ・グラッシー芸術学校学長

 

《東洋と西洋の調和》ー井田邦明演出「マダムバタフライ」に寄せてー

 

 演劇教育界に携わるあまたのプロの中で、演出家井田邦明が演劇指導に優れた才能を持つ偉大な芸術家であるところは、指導を受けた者、彼の同僚の誰しもが認める事である。俳優のマエストロとして生まれついた井田邦明は、その天与の才を持って確固とした指導ができるのである。落ち着きとバランスという、昨日今日では身に付くものでない要素が演劇指導には欠かせない事は、本人も自覚していることである。それは厳しい自己発見の孤独な道程であり、他人とは分かち合うことのできない人間関係の断絶でもあるが、いずれにせよ情熱と寛容さを要求され続ける職業なのである。

 井田邦明は芸術上の表現を指導の苦労、大変さのはけ口にするのではなく、台本に忠実でありつつ、役者それぞれの性格も研究し尽くし才能を引き出し、自己表現をするのである。

 私が今まで見てきた彼の演出は、確固としたスタイルを持ち、出演者を高く評価する観客をつかんでいる。母国語ではないハンディがあるにもかかわらず、井田邦明は演劇の繊細さ、言葉の綾を読み取り、表現し、役者たちを徹底的に指導することができる。この点を見ても、彼がはっきりとした演出の方針を持っていることがわかるが、精神的、象徴的なものも拒否せずに台本作家の意図するところを明快に表現するのが井田邦明である。

 井田邦明の演劇文化は、東洋と西洋の二つの世界にまたがっており、双方の知的影響を受けている。東洋とは彼の母国である日本であり、現代生活のリズム、テンポからは地理的に遠いところにあるが、本人が意識する以上に舞台やスタッフとの関係において、日本の神聖なる、厳しい伝統を感じさせる彼にとって、日本は身近にあるといえよう。西洋とは、ジャック・ルコックについて学んだフランスであり、また現在彼が居住し、活動しているイタリアはミラノの霧、エコー、色彩、音、そして地中海文明の追憶を持っている国である。この様々な要素が彼の中では自然な形で解け合い、日本の高尚な様式とラテン的輝き、つまり演劇の全てを調和させているのが彼である。

 イタリアで難解な三島の現代能で知られた彼の日本での初めてのオペラ演出が「蝶々夫人」という日本を題材にしたイタリアオペラというのは、なかなか意味のあることである。それぞれ立派な伝統を持った異質の演劇文化であるが、ルコックに学んだ井田邦明であるからこそ、役者や歌手の動きの細部までの指導が可能なのである。おそらくそのおかげで、彼は日伊両国の観衆に言葉の壁を超え他舞台を提供でき、友人同僚たちに演劇の持つ様々な面に開かれ熟した芸術をもたらすことができるのであろう。

レナート・パラッツィ氏寄稿原文の一部


ダリオ・フォー氏

イタリアの演出家、俳優。 ノーベル賞受賞。

 

 

ダリオ・フォ(中央) 

ジャック・ルコック(右端) 

井田邦明(フォ後ろ)

 

私の演出した、ダリオ・フォ作品日本公演に際し、以下のようなメッセージを、ダリオから受けとっている。

 

ダリオ・フォーより日本の観客の皆様へのメッセージ

日本の全ての友人の皆さんへ

 

今回ご覧になる2つの劇は、きっとみなさんの気に入っていただけるものと思います。これらの作品を最初に上演した時、私とフランカにははっきりとした目的意識がありました。まず観客を楽しませること、そして何よりも観客に考えさせることです。舞台上で繰り広げられる物語は、どちらも現代の社会や現代人の生き方について、一つの見方を提起しています…それは、矛盾と偽りと不条理にに満ちた私たちの現実を、ありのままに映し出したものです。フランカと私は、パロディーと喜劇の精神によって、自分たちが生きているこの世界を明るみに出そうとしました。だからこそ、ぜひ皆さんにも楽しんでもらい、心ゆくまで笑ってもらいたいと思っています。どうぞごゆっくりお楽しみ下さい。

2001年9月10日                 ダリオ・フォー

 

Milano, 10 settembre 2001

 

A tutti le amiche e amichi del Giappone

 

Carissimi amici,

gli spettacoli che state per vedere, ne sono sicuro, vi piaceranno moltissimo percho' Sono stati realizzati da me e Franca con un preciso intento: quello di far divertire, ma sopratutto quello di far riflettere.

Le storie che andrete ad ascoltare riflettono un modo di pensare di una "certo tipo di" societa' di un certo modo viver...uno spaccato di vita reale, veramente vissuta piena di contraddizioni, di falsita' e di incongruenze.Attraverso la parodia e la comicita' Franca ed io abbiamo voluto mettere a nudo proprio questo mondo. Ecco perche'-sono sicuro- vi diverterete e riderete a volonta'.Non mi resta che augurarvi buon divertimento!

 

Vi abbraccio               

 

Dario Fo


クラウス・ミヒャエル=グリューバー氏

ドイツの演出家。1

967年、ブレヒトの「聖ヨハンナ」でデビュー。代表作「バッコスの信女たち」(71)「ウィーンの森の物語」(72)「エンペドクレス」オリンピックスタジアムでの「冬の旅」(77)など。


イェジー・グロトフスキー氏

ポーランドの演出家。1959年「実験劇場」創設、スタニスラフスキーを批判的に継承する演劇論と「もたざる演劇」の実践で世界の演劇史に画期的な一歩を記し、ヨーガを応用した独特な訓練法や教祖的な風貌が多くの演劇人を惹きつけた。84年にアメリカ、85年にイタリアに移住。晩年は非公開のセミナー形式に移行し、参加者同士のコミュニケーションに重点を置いた。(ハンス=ティース・レーマン著「ポストドラマ演劇」同学社より)


観世榮夫 先生


キャシー・バルべリアン 女史


五十嵐喜芳 先生

「ようやく探し当てました。」と、突然日本から国際電話が入った。電話の主は、当時の藤原歌劇団の芸術監督、五十嵐喜芳先生である。スカラ座の芸術監督だった世界的指揮者、リカルド・ムーティの娘キアラが、私の教え子だという記事を目にされ、藤原歌劇団創立60周年記念公演「蝶々夫人」の演出を、と声をかけて下さったのである。イタリアのフェニーチェ劇場などで音楽劇演出の経験はあったものの、クラッシックな本格的オペラ演出は初めての私に、自分のやりたいことをやりたいようにやらせて下さったご英断には、今でも感謝している。当時の日本ではまだ珍しかった抽象的な舞台は大きな冒険ではあったが、最高のキャスティングを得て、思いがけないほどの絶賛を受け、私にとっては一つの大きな転機となる作品となった。


リッカルド・ムーティ氏


畑中良輔先生

<能舞台に通じる省略 壮絶、井田邦明の演出>

 

これまで日本で全くその活動を知られていなかったミラノ在住の演出家、井田邦明の演出の「蝶々夫人」が、藤原歌劇団創立60周年記念公演として上演された。《2月26日、3月1日、東京文化会館)どちらかといえばオーソドックスな演出を主流としてきた藤原としては、まことに画期的な舞台で、見る者を驚かせ、反発させ、そして終幕に至るころには、有無を言わせぬ集中力の強さで聴衆を一気にカタストロフィへと引きずり込んでしまった。

蝶々さん自決の瞬間、舞台一画のスクリーンが鮮血で染められ、やがて上手と下手より黒のカーテンがその赤をせばめてくる。絶えていく彼女の命の一条の赤い光の中から、ピンカートンが逆光で現れる幕切れは、≪何もない舞台≫だからこそ、雄弁に蝶々さんを描き切れたのだといえよう。舞台設計の桂賢一郎、美術の木崎真知子、照明の奥畑康夫らの井田との共働は、舞台にまつわるすべての属性をそぎ落とすことによって、劇の本質を見据えようとする姿勢が感じられる。それはピーター・ブルックの≪何もない空間≫の思考と、能の省略法との共通する底流の上に築かれた井田の新しいプッチーニ像ではなかったか。

第二幕、橋がかりを含めての能舞台的装置など、ドラマの求心性を高めたが、これに反し、第一幕は、未整理の部分が残ったようで、井田演出の焦点が絞り切れていない。

この演出に見事に応えた佐藤ひさらのういういしい歌と演技は申し分なく、初日林康子不調のため後半突然の代役にもかかわらず感動的な蝶々さんを演じ、更に二日目では余裕を見せての役作りだった。

ピンカートンは二日目、初役ノA.レプチンスキー《東京国際音楽コンクール一位)が期待されたが、高音はよく伸びるものの演技は生硬、初日のG.ランベルティのヴェテランぶりにはかなわない。シャープレスは初日のG.デ・アンジェリスが細やかな心配りを見せ、二日目の牧野正人は美声で聴かせたが若さが残る。指揮のA.カンポリは骨格のしっかりしたプッチーニを聞かせたものの、意余ってオケ(東フィル)を時に鳴らしすぎた感はある。

1994年3月9日 朝日新聞 音楽欄


安部公房 先生

 …横浜生まれの私は、海の向こうに行きたいというあこがれが強かった。高校で映画作りに手を染め、映画をやるには演劇を勉強しなければと、桐朋学園大学演劇科に入った。学校では作家の安部公房氏の講義を聴く機会に恵まれた。卒業して安部公房スタジオの旗揚げ公演の準備に参加したが、前から興味があったフランスのジャック・ルコック国際演劇学校に行きたいと安部先生に打ち明けた。先生は「オレを捨ててルコックに行くのか」と皮肉な顔。結局は「頑張ってこい。芸術家は十年先を見て仕事をしろ」と励ましの言葉をいただいた。(2001年9月6日付 日本経済新聞 掲載文より抜粋)

 

1996年ミラノ・日伊フェスティバル「イタリアにおける日本」(Giappone in Italia 95/96)において、安部先生の「棒になった男」を公演。ピーター・ブルック 作品に出演していた人気俳優ママドゥ ・ディオウメが主演し、好評だった。これで先生に、日本を飛び出してきたことをお許しいただけたような気がした。


清水邦夫 先生

「あらかじめ失われた恋人たちよ」の主役は、私が桐朋学園在学中、先生が私に充てて書いて下さったものである。学校の試演会で演じた後、映画化されたこの作品にも、脇役で出演させていただいた。清水先生は、当時の私にとっては兄貴のような存在で、毎晩酒場で語り明かしたことが今では懐かしい。


渡辺浩子 先生

ルコックで学んだ後、イタリアミラノに渡って仕事を続けていた私に、桐朋時代の恩師である渡辺浩子先生が、ミュージカル「キャバレー」への出演の話を下さった。これは東宝プロデュースの、日本で初めての本格的ミュージカルで、出演者には宝塚出身の順みつきさんや坂本スミ子、尾藤イサオさんなど、当時のスターとの共演で、日本の商業演劇を体験する貴重な機会となった。

公演中私にもファンクラブというものができ、たくさんのファンレターやプレゼントが届き、驚いた。それよりもショックだったのは中日劇場で客席を見た瞬間、観客が全て女性だったこと。イタリアの客席とのギャップは未だに忘れられない。

渡辺先生は、国立劇場の総監督に就任された時、ピッコロ・テアトロ招聘に関して私にご相談をいただき、話を進めていたところ急死された。私の未熟さをいつも笑って受け止めてくれる、優しく懐深い方だった。


大橋也寸 先生

桐朋学園の学生時代、ルコック国際演劇学校に推薦状を書いて下さったのが大橋先生である。ご自身もルコック国際演劇学校への留学生第一号でいらっしゃり、私は先生の講義を通じて、ルコックという名に初めて触れた。

 その頃、ルコックの卒業生であるピエール・ビランの来日舞台を紀伊国屋ホールで見て、今まで見たことがなかったポエティックな世界にいたく感動。こんな世界を生み出すルコック本人に会い、本人から直接学びたい。こうしてパリへの留学を決意。ビランとはその後、ルコックの学校で私のアクロバットの先生として再会、今はスイスに暮らす彼と、今度は友人として親交を深めている。

 

 


オージェニオ・バルバ


高田和文 先生


アルド・ジョバンニ・ヤコポ


上田美佐子女史